揃いの腕時計。
一方は、1年前に時を刻むことを阻まれた。
体が冷たくなっても、まだはめられていたあなたの時計。
あなたと私は、まだ縁があると思ってもいいの?

私は今夜も、あの喫茶店に行くわ――。









――1人の刑事の称号――














肩にかけての激痛に、須藤は目を覚ました。
目の先には、見慣れた白い天井。
それが、ぐるぐる回っているような感覚がある。
『いつもよりも、やべえかもな…』

右肩の激痛も、この視界のふらつきも、何か尋常ではないものがあった。
これからの人生を、影に陥れるような、何か。

病室のベッドに起き上がれるようになった頃には、
眩暈も治まっていた。
普通食になった頃、主治医が相談室に須藤を呼んだ。

「リハビリに、励んでください」
須藤が丸椅子に腰掛けると、主治医はそう切り出した。

須藤が怪我をしたのは、右の上腕にかけて、神経を断裂していたようだ。
1ミリでも右に寄っていれば、右腕切断の危機。
それでも。
それでも、今の状態でも、
リハビリに励まなければならないことには変わらない。

「退院したら、どうしたいですか?」
「職場復帰です」
「というと…やはり、拳銃も持ちますよね?」
「…はい」
「それを望むなら、やはり、毎日手を動かしてください。筋肉が固まらないように」
「――はい」

あれから、1週間。
リハビリテーション部に毎日顔を出し、
理学療法士と作業療法士に指示を仰ぎながら、
右腕のリハビリをして来た。
それ以上に、毎日動かさないと鈍ってしまいそうな体を、
鞭打つように運動し続けた。

右手を握り、離し、握りを繰り返すだけで、眉を顰めてしまう。
「…っ」
くぐもった声しか出なかった。

「はい、須藤さん。曲げます」

その度に、苦痛だった。
でも、やはり、『職場復帰』という4文字は、
須藤の心に焼き付いて離れなかった。

『俺、こんなに仕事に執着するヤツだったのかな…』


須藤は、それから毎夜、眠れずにロビーに向かった。

病院ってのは、白い景色ばっかりで、
リハビリしていると煮詰まってくる。
その点、ロビーは外が見られるから、
毎夜、ここで過ごす。

自販機の前で、何を飲もうかと考える。

――今時の女が、病院を出て行こうとした。

須藤は缶コーヒーを2本買い、
…気がつけば声をかけていた。

「ねー、飲まない?」

女が振り向いた。
どっかで見たことある面影。

…まあ、いいや。

なげやりにそう思い、その女に歩み寄る。

「どうぞ」
「…コーヒーをこんな夜中に飲んだら、眠れなくなりますよ」
「いいって。どうせ俺、寝られないから」
プルを開けて、一口、口に流し込む。
ああ、これで今夜も寝られないんだな。

女は、缶を受け取り、須藤をソファーに促した。

「どうして、寝られないんですか?」
「真っ白だからかな」
「リハビリしてるんですよね?」
「ああ、これ?」

まだ思うように動かない、右腕を少し挙げてみる。

「リハビリは、結構な運動だと思いますが…」

そう。
自分に鞭打つような運動。
激しい。
それでも、眠れない。
体は疲れているのに、疲れを感じているのに、何かが、俺を眠らせようとしない。

そのまま、2人は押し黙った。

「すまない、たいした会話ができなくて」
「いえ、疲れていらっしゃるのでしょうから。
では、私は家に帰りますね」
「ああ…。おやすみ」

須藤の実体のない、「おやすみ」という言葉が薄明るいロビーに冷たく響いた。



女は、病院を出て、考え事をしながら、家路に着いた。




「おはようございます、検温のお時間です」

それでも、眠れたらしい。
午前8時の検温の時間、須藤は看護師に起こされた。
「起こされた」ってことは眠れたってことだろ。
もう、何が現実なんだかわからなくなっている。

昨日、あの女性と会話したのは夢だったか、何だったのか。

「大分、煮詰まってるな…」

今日も、自分の体に鞭打つ1日が始まる。
右手。
握力が失われた右手。
この体をどうにかするために。
この白い世界で――。

午前のリハビリから病室に帰って来ると、既に昼食の配膳が始まっていた。
自分の分を受け取り、ベッドで食べる気が起きず、食堂に運ぶ。

味噌汁から箸をつける。
そこで、看護師に話しかけられた。
「須藤さん、こんにちは」
顔はどこかで見たようだ。
頭の片隅に記憶の欠片がある。

彼女が、須藤の隣に座った。

「私、大塚って言います。昨日は…コーヒーありがとうございました」

――コーヒー?

「コーヒーって、何?」
「…お忘れですか、昨夜のこと?」

煮物をつつきながら、「昨夜」のことを反芻した。
毎日が同じに思えて、時間軸がごちゃごちゃになっている。
昨夜は、毎度のように眠れずに、ナンパのようなことをしたんだっけ?

「もしかして、昨日の…?」
「あ。思い出してくれました?」
「…この病院のナースだったのか」
須藤は、変な意味ではなく、彼女の頭から足まで眺めた。

この看護師が、昨日、ロビーに居た女性?
看護師って、ユニホームを着ているときと私服のときって随分印象が変わるな。
そこが…ギャップが…魅力なのかもしれない。

って、何を考えてるんだ。
向こうは仕事で、俺は患者…。

須藤の心に、光が灯った。



「俺に付き合っていて大丈夫なのか?」

食堂での会話以来、1週間彼女と会うことはなかった。
彼女も、厳しい勤務体制の中で仕事をして、
そして1人の女性に戻るのだ。

「この前は、これから眠るって時に、引き止めてすまなかった」
「いいえ、どうせ私は、仕事帰りにいつもファミレスに寄るんです。
 ですから、須藤さんに声をかけられたくらい、何とも」
「へえ、ファミレスか」
「そのファミレスで、私はコーヒーを飲む」
「どうして、家に帰らないんだ」
「うん?…人に入れてもらったコーヒーを飲んで、1日お疲れ様、って自分に御褒美」
そういう、他愛もない話をした。



大塚美希が須藤の病室に入ると、彼の顔が暗かった。
主治医から聞きかじったところによれば、リハビリが煮詰まっている、らしい。
リハビリに対して積極的ではあるのだが、精神的に荒れる傾向があるのか。

そんなことを頭に思い浮かべながら、
彼女は平静を装い、須藤に話しかけた。

窓の外を見ていた須藤は、彼女の声に目を合わせた。

「おはよう」

声が鋭い。

「今日は、眠れましたか?」
「…眠れたと思う?」

声が鋭い。

しかし、それに動じる美希ではない。
――看護師としては。

「ちょっと、脈を計らせてくださいね」
患側の手首を手に取り、脈を計りつつ、時計で目測する。

動かしにくい手に、美希のあたたかさが伝わっていく。

心が、あたためられている。
ああ、俺は本当に――。

「脈は大丈夫ですよ」
「ごめん」
「?」
「荒れてて、ごめん」

声が、切羽詰っている。

「屋上、行きましょう」

美希は、須藤の左手をつかみ、屋上への階段を上っていった。

―― 一線を越えそう。
あの自販機の夜から。
彼が忘れられない。


―― 一線を越えてしまう。
この白一色の世界で。
色を放つ彼女に。


「はい、須藤さん、深呼吸」
「え?」
「いいから」

すー。はー。すー、はー。

須藤は言われるままに、大きく息を吸い込み、そして吐いた。
そんなことを繰り返すうち、次第に空の青さがわかるようになるくらい、
心が落ち着いていくのがわかった。

「リハビリで辛いと思うけど…今度混乱したら、その右手でコレを握ってみて」

須藤の目をまっすぐに見て、美希は2つの胡桃を須藤の右の手の平に落とした。

「お守り」

あ、すごい素敵な笑顔だ。

そして、美希は病棟に降りていった。

須藤は、屋上に寝転がった。
熱い気持ちを落ち着けようとして。
ああ、でも、もう落ちてしまった。
気がついてしまった。

君は、この世界で俺に色を気付かせてくれる人――。



数日後、須藤の病室に珍しい男が見舞いに来た。
須藤の元には、1週間に1回は暇を見つけた署員が見舞いに来ていた。
しかし、その男は見慣れた顔とは違っていた。

「よう」
その男は、若干遠慮がちに、須藤に声をかけた。
「調子はどうだ」
「大分いい」
須藤はおどけて答えてみせた。

牧は、須藤の見舞いに行きたいと思いつつ、
申し訳なさからか、仕事の忙しさからか、恐らくは両方の理由から、
結局行けずじまいだった。

須藤の右手の調子がよくなったのは、事実であった。
ある日を境に癖になった、胡桃を弄ぶ行為が、
結果的に良い方向に向かわせたのであろう。

「そうか、そいつはよかった」
自分に気を使わせないための、一言なのかもしれなかった。
だが、それを信じさせてしまうほど、須藤はいい顔をしていた。
そして、心なしか、瞳に光がある。
須藤――須藤渉のことは、高校時代から知り尽くしているが、
こんなに力強く、光がある瞳を持つ須藤に、
今まで会った事があっただろうか――?

勤めている警察署は違えど、
須藤と牧は、共に捜査活動をすることが多かった。
その多くは、非合法の捜査活動――。
お互いの警察署では担いきれない闇の部分を、
2人の暴走により、何とか解決してきた。
それは、言わば2人にとっては、『危険』な場へ飛び込むという概念はなかった。
ただただ、高校時代のタックルのように、
飽くなき挑戦だった。
そんなときだけ、須藤は空ろな瞳を輝かせて、敢えて危険な場に飛び込むのだった。

変わったな。
しかも、いい方向に変わった。
でも、俺たちの友情は変わらない。
あまり、長居するわけにもいかない。
他愛無いおしゃべりを、少しだけし、
須藤の病み上がりの体を慮って、牧は病室を後にした。


「じゃあな」
少ない見舞い時間の中、向こうはそう言って、病室を後にした。
須藤は
「おう」
と、一言だけ残して、彼を見送った。
見舞いに来なかったことなんて、ちっとも気にしてはいなかった。
2人の仲はそういうもんだ、と思うし、何せ、元はライバルだったのだから。
病室に入ってきた彼の顔は、少しだけ曇っていた。
やっぱり、気にしているのか?
気まずさを隠すために、あれ以来癖になっている胡桃を手に、
ガリガリやりだした。
それを、「リハビリ」と取られたのだろうか?
そこからは、彼に影がなくなり、
他愛無く会話を交わせるようになった。
もっとも、数分で帰ってしまったが。

また、自分の中に光が灯るのがわかる。
懸念していたことが1つずつ、消えていく。
生きる勇気が湧いてくる。
そして、その光の元は、大塚美希だ。

もうすぐ、退院だろう。
この光を胸に秘めて、俺は生きていこう。